#4 九条鴇久



 力の発現、及びその自覚は、尤もらしい形で有り得ない事が実際に起こったことから始まる。



 何でもない休日の夜、とあるマンションの一室で母さんと二人暮らしだった俺は出来たての
夕飯にありつき、テレビのバラエティー番組に夢中だった。
 何でもない詰まらない話に花を咲かせ、笑いあう、二人だけの家族団らん。二年前に親父が
失踪してからというもの、苦しくも穏やかなこの時を俺は大事にしていた。

 だが、突然にその時は訪れた。

「魔術師、九条冴子よ、貴様は禁忌を冒した。よって大聖堂の御意思により抹殺を命じられて
いる」

 鈍く光る銀色の重厚な甲冑がドアを蹴破り、和やかな空気を粉砕する。
 何の冗談かと思った。ファンタジー映画に出てくるような騎士の鎧が目の前に三つ、その手
には禍々しさを放つ漆黒の槍。
「ガキは如何しますか?」
 軽口を叩くように一人が言う。
「好きにしろ、飽く迄我々の目的は九条冴子の抹殺。それさえ成せれば良い。邪魔立てするよ
うなら殺せ」
 甲冑の騎士は俊敏な動きで腕を大きく振りかぶり、撃ち放つ。
 突き付けられた切っ先は母さんの身体に触れることはなく、寸でのところで停止する。
 母さんが呆然と立ち竦む俺に向かい、叫ぶ。逃げて、と。
「守りに入った時点で貴様に勝機は無い。此れは如何なる魔術障壁をも喰い侵す神殺しの槍[ロンギヌス]
 余裕ある声で自らの武装について説明を終えると同時、槍は母さんの左胸を貫いていた。口
から血を吐き、生気を失い始めた瞳で俺を見つめ訴える。ただひたすらに、逃げて、と。
 そんなこと出来るわけがない、母さんを置いて逃げるなんて。助けるんだ。でもどうやっ
て? どうやって助ければいい…!

 ───。

 母さんが虚ろな瞳でこちらを見ていた。瞳はおろか、指の一つも動かない。
 直面したのは、死。あまりにも突然で、あまりにも理不尽な死。

 既に弾は装填されている。

「女、くたばりやしたぜ? 呆気ねぇなぁ、愛する息子を守るにしちゃ随分と覇気のねぇ幕引
きだ」

 引き金を引く。

「ガキもやっちゃいましょう、禁忌を冒した魔女の小倅なんぞ生かしておいても問題の種にし
かなりゃしませんぜ?」
「待て、邪魔立てするなら容赦するなとは言われているが、無益な殺生も極力避けろとも言わ
れている」

 撃鉄は、下ろされた。

「まぁ餓鬼ィ、オメェに恨みはねぇが、死んどけやァァアアア!」

 刹那、勢いよく白い壁にぶちまけられる鮮血。生暖かい死臭が立ち込める。
 心臓を一突き、最も苦しまないだろう方法を取るのがスマートだというセオリーを無視して
首でも撥ねたのか、その出血は留まる所を知らない。
 目の前には身体の何処かを切り裂かれた無残な青年の姿がある筈だった。だが、

 在ったのは、ぐにゃりと強引に腹部を裂かれた甲冑。そこから流れ出る血と肉。

 言葉も無く倒れた無残な姿を晒す仲間を見て、呆然とする甲冑騎士たち。
「在り得ない…如何にしてこのような…!」
 気が付いたときには、既に遅すぎた。
 その手にあった筈の神殺しの槍が次々に自らの甲冑を貫き、蹂躙する。血肉が四散し、地獄
絵図を作り上げる。

 俺は何もしていない。ただ、想像しただけ。そうなるように、願っただけのこと。








 母さんの死体を背負い、俺は何処へでもなく駆け出していた。
 目的、昔興味本位で読んだ魔術の指南書に載っていた、蘇生術を行う為。馬鹿げた話だ、こ
ういうのを狂っているというのだろう。だがその時の俺の精神状態は行動の是非を考える余裕
すら無かった。
 母さんを背負って走り続け、小さな公園の地面にゆっくりと降ろす。
「待ってろよ…ッ、はぁ…はぁ、今…助けるから…ッ!」
 ぼんやりとしたイメージを思い返しながら僅かな記憶を頼りに陣を描いていく。
 歪な形の陣が完成し、その上に遺体を移動させると俺は何をするでもなくただ祈った。母さ
んを助けてくれと、生き返らせてくれと、ひたすらに祈った。
 止め処なく流れる涙が、見下ろす地面と母の頬を濡らす。
 こんなまじないに意味が無いことは自分でも判っていた。だが、他に如何すればいい。狂っ
ていようが何だろうが、何かをしなければならなかった。そうしなければ全てが足元から崩れ
落ちていく気がした。
 ふと、母さんの指が動いた。
「か、母さん!?」
 次第に動きは大きくなり、腕を伸ばし、俺の頬を撫でた。
 俺はその手を取り、母さんの身体を抱き起こそうと──

 突然に視界が遠ざかる。後ろから襟首を掴まれる感覚は一瞬、文字通り後方に放り投げられ
た。
 眼前に映るのは地に寝そべる母さんと、見慣れぬ女性の姿。
 放り投げられてから時間にして三秒に満たないその刹那、女のかざした右腕から発せられた
焔は、唯一無二の存在を灰燼に帰した。
「お、お前ッ…!」

 パンッ! 足早に歩み寄ってきた女の平手が俺の頬を手加減なくひっぱたいた。

「黙れ、お前のしようとしていた事は如何なる理由でも絶対に許されない」

 その目は厳しく俺を見据えていた。
 殺してやる、沸いた憎悪は一瞬、何故? 理由はきっとその女、火色綾の瞳がどこか見慣れ
た優しさを湛えていたからだ。







「落ち着いたか?」
「…」
 連れてこられた場所は、お世辞にも綺麗とは言えない散らかった事務所の一室。自分でも驚
くほどに酷く落ち着いていた。あんな事があったばかりだというのに。
「自己紹介がまだだったね。私は火色綾、この事務所の所長だ。君の名前は知っている、九条
鴇久、だったっけか」
 俺は何も答ず俯いたまま、彼女の話を聞くだけ。気持ちこそ落ち着き始めているものの、何
か言を発せば琴線が切れてしまう気がした。
「まぁそのままでいいよ。君が知りたいと思っているであろう事を勝手に喋らせてもらう。
 君の家を襲ったのは十字教のミリティア、恐らくはソロモン派の連中だろう。あんな紛い物[ロンギヌスレプリカ]
を下っ端に持たせるあたり、落ちぶれたもんだよ。
 奴らが襲った理由、君の母親が魔術の禁忌に触れた所為。どのような事をしていたかは私に
は判らない、知りたければ奴らに直接訊くことだ。
 次、君自身の力のこと。

 私も正直こんなもん信じてなかったんだけど、事実として現物が目の前に現れた以上認知せ
ざるを得なくてね、私の知識と経験から、とりあえずだが考えをまとめてみた。

 その力は魔術、いや、真術というべきか。真術ってのは魔術を超越したより自然現象に近い
魔術。術式や依り代、道具や契約を必要とする魔術とは違い、先天的に身体に宿る力によって
発現される。簡単な例を挙げるなら、ライターは火を点ける為にオイルが必要だが、オイルを
使わずとも火を点けることが出来るのが真術だ。

 次、君が使える力について。
 全能、という言葉がある。文字通り全てを可能とするという意味だ。早い話が、お前にはそ
れが出来るのさ。
 自分が思った通りに事象を起こす。必要な行程も妨げもなく、ただ考えるだけで世界を意の
ままに出来る。信じられるか? 私は未だ半信半疑だよ、こんな馬鹿げた話。
 人を殺したいと思えば殺せるし、飛びたいと思えば飛べる。死者を蘇らせたいと思えば容易
に蘇生出来る。嗚呼、なんか自分で話してるだけで眩暈がしてきそうだよ…。

 嘘だと思うだろうが、事実として君はミリティア共を殺し、母親の蘇生を行った。ミリティ
ア達に関しては一考の余地もあるが、死者の蘇生を目の当たりにしてはもはや選択の余地は無
い。

 問題は、君が全能でありたいか否か、だ」

 本当に馬鹿げた話だ。ぶっ飛んでいるってレベルじゃない。全能? 俺が? 何でも出来る
って? 確かに甲冑を蹴散らし、母さんを……
「……全能って…なんでも出来るって…そんなの神様じゃないですか。俺は神なのか?」
「そうだよ、神と呼べる力をお前は持ってんだよ。人の身でありながら、な」
「そんなの…ははは…馬鹿げてる…」
「今更言うまでもなく馬鹿げてんだよ、お前のその力は。私が訊いてるのはお前がどうしたい
か、絶望のままに世界を滅ぼしたいのか。それともその力を使わず平穏に暮らしたいのか。ま
ぁどちらもハッピーエンドには成りえないけどな」
 世界を滅ぼす、か。それもいいかもしれないな。今更平穏無事な暮らしに戻ったところで、
母さんは──
 そうだ、また蘇らせれば…そうさ、俺が願えばどんなことでも現実になるなら。

 突然に蛍光灯が明滅を始め、鳴り響く地鳴りに似た世界の軋む音。
「そうさ…俺は何でも出来るんだ…だったら」
 瞼を閉じれば思い出す、二人だけの団欒。守りたかったごく狭い世界の平穏。赤く染まる守
れなかった其の世界。そして、空間が歪む。

「痴ッ…馬鹿者がッ」
 全力の蹴りが俺の側頭部を捉える寸前、まるで足を何かに掴まれ投げ飛ばされたかのように、
火色綾は壁へと吹き飛んだ。壁面には地割れのようなヒビが入り、その衝撃の大きさを物語
る。
「痛ッてぇ…クソ、もう結界が持たんか」

 俺は戻りたい、平穏だったあの世界に。幸福ではなかったかもしれないけど、それでも輝い
ていたあの世界に。俺は、

「九条鴇久!!」

 火色綾が俺の名を叫ぶ。瞳だけでその姿を確認、性懲りもなくまた攻撃を仕掛けに来ている。
無駄だというのに。
 今度は顔面を押し付けるように床へ叩きつけてやった。死んだかな?
 ほら、こんな風に人間の死なんて呆気ないものなんだ。こんなにも簡単に、全てを奪う。

 轟──

 目の前に現れたのは巨大な[あぎと]。全身を紅く滾らせる空想上の生物、竜。
 爛々とした双眼が俺を見つめていた。圧倒的な威圧感、抗えぬ死の感覚。
「何なんだ…!くそっ、死ね!俺の前から失せろ!」
 眼前の化け物の死を強く願うが、いくら強く念じようともそれは叶わない。

「無駄だよ、そいつはお前の力と同じ真術。この世の事象を超越した存在。全能といえど真術
であるならば其れに干渉することは不可能。たとえこの世界の全てを崩壊させたとしても存在
し続ける。故にお前の力は全能でありながら不完全な矛盾の魔術式。

 聞け、九条! 死んだ人間を蘇らせるってことはな、生きるということを、生きたという事
実を、全くの無価値にする。人間は命が尊いものだと識ったから日々を強く生きようと、強く
あろうとする。ボタン一つで切り替えられるような命に何の価値がある? 何の意味がある?
 そんなフザけた事はたとえ神であって許される筈はないんだ! 神が其れを良しとするなら
私は──  神をブチ殺す!」


 慟哭のような火色綾の言葉を、竜の顎に飲み込まれる刹那、永遠とも思われる一瞬の刻に、確かに
聞いたんだ。







 目覚めると、美味しそうなコーヒーの香りがした。
 身体は動かない。まるで全身が石になったかのようだ。瞳だけを動かして周囲を確認すると、
視界の左側には午前八時半を示す掛け時計。視界の右側に不機嫌そうな傷だらけの女の顔。
「………俺は…」
「無理するな、最低でもあと二、三日はまともに動けない。あんだけ無茶苦茶やったんだ、当
然の報いだ、馬鹿者が。この惨状を見ろ! 壁から床に至るまでギッタギタ、書類や本は焼け
ちまうし、大切に育てていたパキラまで黒コゲだ」
 成程、不機嫌の原因は見渡す限りに広がる地獄絵図だったか。そしてその原因は俺にあるら
しい。

「今一度訊こう。九条、お前はどうしたい」

「……俺は、生きた事実を、生きている世界を価値あるものとする為に、生きたい」

 何故だか今は、素直にそう思えた。
 母さんの死、拭い切れない理不尽さや怒りとか悲しみとかはある。でも、どうしてだか今は
無性に清々しくて、気持ちよくて、何の気兼ねも無しに、涙が溢れた。
 それで良いと、火色綾は言う。それで良いと。



「朝食はありますか?カジキさん」




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