詩崎 夜


 私が目を覚ましたとき、一番に視界に入ってきたのは曇った空。ではなく、退屈そうに大欠
伸をかく女の顔だった。
 整った顔立ちで、年の頃は二、三十というところだろうか。
 何故私が仰向けに寝ている状態で女の顔を見上げているのかと言えば、寂れた公園のベンチ
に座るこの女の膝枕の世話になっているせいだ。
 では何故そのような状況に? 判らない。何故が何故を呼ぶ堂々巡り。考えても判らないこ
とは考えるだけ無駄、だから考えない。
「あの…」
「おや、おはよう。ぐっすり眠れたかい?」
 おかげさまで、と答え身体を起こす。硬い床に身を預けるのは少々堪える。
「私の名前を言ってごらん」
「え? 私達は初対面でしょ。名前なんて判るハズ」
 判る筈ない。そう言い掛けたところで自分の記憶と眼前の女の情報を照合する。該当有り。
「火色…綾。嘘、何で私こんな」
「私が判るか、なら問題は無い。術の施行に際し少しばかり私の血を使った。時々記憶の混濁
が見られるかもしれんが、深く考える必要はない。それはお前の記憶じゃなく、私の記憶だか
らな。二、三日もすれば体内で浄化され覚えの無い情報を視ることもなくなる」

 そうだ、少しずつ思い出してきた。私は死んだ筈だった。
 腹から大量に血が流れてて、凄く寒くて、怖くて、全てがどうでもよくなった。
 生にしがみ付くのを止めて、全てを諦めて地に倒れ伏した。
 意識が薄れ、視界は曇り、思考が止まる。
 嗚呼、これが死なんだ。なんて朦朧としながらふと思ったけど、今はどういう感覚だったか
いまいち思い出せない。
「貴方、魔法使い?」
「正解。そしてお前も同業者なんだろ?」
 咄嗟に身構える。私とて魔法使いと名乗る人間に会うのは初めてではない。腹に受けた傷も
その同業者から受けたものだ。
「そう警戒するな、私はお前に危害を加えたりはしないよ。傷を治した治療代に、話くらい訊
いてもいいだろう?」
 足を組み直し、リラックスした面持ちで私を見つめる。
 私には目が覚めたときから拭い切れない疑問があった。どうやってこの女は神獣の攻撃を免
れたのか。あの神獣は千年クラスの個体。一介の魔術師風情がどうにか出来るような代物じゃ
ないハズ。
「どうやって追い払ったの?」
「何だ、お前の話を訊きたいと言ったのにまた私の話か。確かにアレは私が退けた。だが、追
い払ったというのは間違いだ」
 一呼吸置いてから火色綾は淡々と、まるで蟻を潰しただけとでも言ったような感じで言った。

 ──殺した、と。

「嘘でしょ…? あれは貴方みたいな一介の魔術師がロクに傷も負わずに相手を出来るような
モノじゃないわ」
「確かにな、私もこの手のことは詳しくないがあれは神獣というモノだろう? 然るべき場所
で聖水に獣の屍を数百年単位で浸し、それを依り代として神を降霊させる。はっ、馬鹿げた話
だよ、あんな紛い物が神とはね。
 どうやって殺したか?簡単なことだ。神だの何だの言っても所詮は魔術によって創られた模造品[かみ]
魔術である以上、より強い魔術によって淘汰されただけのこと」
 そんな馬鹿な。この女は人の身でありながら大聖堂のベルセルクが十人集まっても手を焼く
神獣をいとも容易く葬れるほどの力を持っているというの? そんなの有り得ない。
「まぁ別に信じようが信じまいが、そこはどうでもいいさ。神だの神獣だの、私はその手の偶
像崇拝には全く興味が無くてね。興味があるのはお前自身さ」
 私はまだ半信半疑だったけど、火色綾の言葉には妙な説得力や信憑性があった。だから私は
彼女に打ち明けることにした。
「どうでもいいけど、此処は寒いからイヤ」

 目の前の魔女は、はぁ? といった感じの呆けた顔を浮かべた。







 私の家は極々普通の家庭だった。

 父は会社員、母は専業主婦、私は卒業を目前に控えた高校生。
 自分で言うのはちょっと憚られるが、割と恵まれた暮らしをしていたと思う。
 両親が日も昇り切らないうちに目覚め、父が仕事へ行き、母がそれを送り出す。まだ眠りこ
けている私を母が起こし、朝食もそこそこに急いで学校へ行く。そんな日常。
 私には幼い頃から自分には他人には無い特別な力があることを自覚していた。
 例えば、運動神経があまり良くなかった私は衆人環視に晒される運動会や体育祭というもの
が大嫌いだった。だから私は運動会を目前に控えた日、「雨が降ればいいのになぁ、とびっき
り酷いやつ」とぼんやり願ったりした。
 運動会当日、今年最高とも言われるほどの凄まじい豪雨に見舞われ、運動会は中止となった。
 延期となったが、その日も結局大豪雨に見舞われ、最終的に運動会は執り行われないまま終
わりを迎えた。
 こうした偶然を、単なる偶然として片付けなかったのは、この他にも幾つもそうした『偶
然』が起こったから。
 金が欲しいと願えば父が昇格、昇給。もっと金が欲しいと思えば宝くじが当選、大金が転が
り込んでくるし。
 繰り返し起こる偶然に、私が願えば何でも願いが叶うんだと、そう確信した。

 だが、その力を行使する度に私は何か満たされない感情を抱くようになった。
 もっと楽しいことを、もっと刺激的なことをしたい。そこで私は間違いを犯した。

 ──あの男、車に撥ねられないかしら。

 目の前を通りすがっただけの通行人の男にそう思った矢先、目の前で男は勢い良く宙を舞い、
地に叩きつけられる。腕や足が曲がる筈のない方向へと不自然に折れ曲がっていた。

 私が願ったから? 私が願えば人だって殺せちゃうの? なに、これ。

 私が直接手を下した訳ではない。私はただ願っただけなのだ。でもその願いは目の前に横た
わる事実として確かに叶えられた。
 それからは苦悩の日々だった。何も考えず、何も願わないと意識し続ける。意識しようとす
ればするほど私の願いは込みあがってくる。
 ある時、この力を消したいと願えばそれが叶うのではと思い立ち、願った。にも関わらず、
待てど暮らせど『偶然』は起こり続けた。
 こんなのって無い。何でも出来る力なのに、その力を消すことだけは出来ないなんて。

 苦悩し続け、両親の心配をよそに部屋に引きこもり続けたある日、奴等が私の前に現れた。
 止める両親を押し退け、部屋に踏み入るとこう言った。
「詩崎夜、貴様は侵してはならぬ神域に踏み入っている。上の命令は該当者の抹殺。よって此
れを行使する」
 こいつら何者? というか何で私が抹殺されなきゃならないの? 私は何もしてない、ただ
願っていただけなのに。
 母と父がその男を必死で止めようとしていた、私を守るために。でも気が付いたら──
「行使の妨害をする者は殺していいと許可が出ている」
 ──お父さんとお母さんは、首から上が無くなっていて、赤い液体が四散していた。
 狂ってる。何もかも狂ってる。
 私は願った、目の前の脅威を消し去ってほしいと、ひたすらに願(のろ)った。


 それからというもの私はアテもなく逃げ続けた。何故逃げたのか? 簡単なこと。他人の死
は平気で願えるクセに、自分は死にたくなかったからだ。
 自分の置かれている状態を理解するため、神、教会、超能力、悪魔崇拝、魔術、あらゆる文
献を読み漁った。
 治す方法は、どこにも書かれていなかった。

 追手のミリティアは容易に殺せた。でも突然現れたあの獣、神獣だけはどれだけ願っても殺
せなかった。
 馬のような容貌、爛々と輝く瞳に殺意を帯びた双角。私を殺すためだけに遣わされた異形の
獣。
 あの手この手で攻撃を避け、反撃を試みたけど、本当に全く通用しない。敵は足を止めるこ
とすらしない。私の疲労が限界に達したところで、痛手を負った。

 逃げて逃げて、私は遂に倒れたんだ。







 薄暗い事務所の中、私はソファに腰掛け事の顛末を語った。

 こんな馬鹿げた話を誰かにしたのは初めてのことで、自分でも何だか恥ずかしい。
 コーヒーを淹れて戻ってきたカジキは向かいのソファに座り、自分のと私の分のコーヒーを
テーブルに置いた。
「成程ね、無意識下で発現した力を無軌道に行使した結果、出てくるものが出てきちまったっ
て訳か。何でも出来てしまう力、お前はそう勘違いしているようだがそれは違う。そう見えて
しまうのはお前が結果しか見ていないからだ。この世の全ての事象は原因と結果によって成り
立っている。その力は、あらゆる因果を呼び寄せるものだ」
「因果を、呼ぶ…?」
「そう、万物に起こる予め決められていた因果を殺し、自らの望む因果を手繰り寄せる。だが
無から有が生まれないように、何もない状態から突然因果が発生することはない。手繰り寄せ
る、と言った通り本来成される筈だった因果を使うんだ。
 例えば、誰かを殺したいと願ったとき、死ぬはずだった者の死の因果が無作為に選定される。
死ぬ筈だった何処かの誰かさんは生き、殺したいと思った人間が死ぬ。金が欲しいと願えば、
自分の所に大金が舞い込んでくる代わりに誰かが大金を失う、もしくは大金を得るチャンスを
失っている。というような明らかな不等価交換がまかり通ってしまう。等価交換を必定の理と
する錬金術師どもからすればそれは、禁忌と言っても過言じゃない所為だ」
「こんな力要らない…無くす方法はないの?」
「無いね。お前の力は開発されたものでなく、先天的な自然覚醒によるもの、真術ってやつだ。
付け焼刃の魔力開発とは違い、その身体の血肉や骨の髄に至るまであらゆる部位に魔力が宿っ
ている。それを無くせるのは死という概念だけ。もう知ってるだろうが、その力は自身の因果
に関して行使可能なものとそうでないモノが存在する。この力を無くしたい、とかね」
 死ぬこと以外に治す方法はないと、カジキはそう言っているのだ。
 でも私は死にたくない。何があるというわけでもない、私には何も無い。でも死への恐怖は
どうやったって拭い去れなかった。だから生きる事を選んだ。なのに助かる道は自らの死以外
に無いと言う。

「ただ、根本的な解決にはならないが助力ぐらいなら出来るっちゃ出来る」

 心臓の鼓動が跳ね上がる。カジキの言葉に私は目を見開き、その目をすがるように見つめた。
僅かな希望を、カジキが用意すると言った。藁をも掴む気持ちで次の言葉を待つ。
 カジキは自分のデスクの引き出しの鍵を開け、何かを探している。

「うちには従業員が一人居るんだがね、そいつもまたどえらい面倒を抱え込んでる。そいつを
思えばお前の力なんかまだ良い方だ。
 九条鴇久というんだが、そいつは本当に自分の思ったことを有りのままに顕現出来る。この
世のありとあらゆる事象の全てを、だ。ぶっ飛んだ話だが私も出会うまでは決して信じなかっ
た禁忌。奴の力は全能。全能たる力が不完全な人間という器に宿ってしまった不幸な人間なん
だよ、九条鴇久は」

 そう言うとカジキは私の掌に、鈍く銀色に光る指輪を差し出した。

「そいつの話を聞かせてやろう。となると、もう一杯コーヒーが要るかな」





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